保険の話の続きです。「死ぬ」ということについてもう少し深く考えてみます。今日はわたしの死生観をお伝えします。 ・ 人はいつか死ぬと気がついたのは中学生の時でした。新聞で尊厳死のシリーズを連載しているのを読み衝撃を受けて、夏休みの自由研究に尊厳死を選び、中学生なりに人が人の命を断つ正義について真剣に考えました。以前にも書きましたが、同時期に手塚治虫のブッタや火の鳥も読んで、死ぬと生きるは常に表裏一体で、「後悔なく生きることが、後悔なく死ぬこと」だと気がつきました。 ・ 生まれてきたものは必ず死にます。死は人生の中で最も強い悲しみであり、誰にも平等に必ず訪れるものです。面白いなと思います。どんな境遇、生活、生き方であっても死ぬという事実は変わりありません。近しい人が死ぬことを誰しも経験します。最大の悲しみが誰にでも訪れることを知った時に、少し気が楽になりました。それでもみんな生きている。人間はとても強い。 ・ さて、そんな中に、わたしが最も興味のない保険の話が出てきます。保険とは自分が死んだ後に残る人のために掛けるものでしょう。様々な考え方があると思いますが、私が社会人として負うべき責任としての保険を考えるならば、会社の代表取締役であるという点での保険は必須だなと考えてます。会社の主が突然亡くなった場合、社員にかける迷惑を最小限にするためにまず保険に入らなければなりません。これは立場としての保険です。 ・ 家族の中ではどうでしょうか?私は現在、無借金なので、死んだとすると経済的な損失は多少はあるものの、夫が健康である限り、スタッフと共に事業を存続させ何とかやっていけるでしょう。子どもは自分で生きていくものであると考えていますので、高校生くらいの年になれば、親がいなくとも勝手に収入を得て生活できる逞しさは、うちの子たちは持っていてくれると信じています。なので、最小限でいいでしょう。 ・ 病気で迷惑をかけるというケースがないように、日々健康に気をつけて、食事・運動・睡眠を徹底的に追求しています。それでも病気になって迷惑をかけることがあるならば、急病のケースが高いでしょう。重度の障害がある場合は、施設に入れてもらうくらいのお金を用意しなければいけなくなるかもしれません。 ・ 当たり前ですが、保険は「たられば」です。もし死んだとしたら、急病になったら、癌になったら、事故にあったら、、、万が一の場合に備え、大切な誰かが困るから掛けるものです。生きている時の安心も買うことができるでしょうし、どの程度の保険が必要かの基準は人それぞれです。 ・ いろいろな考え方があるでしょうが、わたしの場合、保険に入るか否かを考えた時に、考えるベースはこんなことです。自分の周りの人間を信頼しているので、基本的にわたしが死んだってどうにかなると思ってます。きっとみんなやれるはずです。だから、自分なりの解釈で保険に入るか否かを選択します。家族や友人はそれをきっと肯定するでしょう。揺るぎない信頼関係があるので、全く心配していません。そのために、自分は今の生き方を選んでいると言えます。 ・ 繰り返しになりますが、人は死ぬものというベースに立って、わたしは今を生きています。なので、いつ死んでもいいくらいの覚悟で全てに望んでいますし、死にたくないですけど、死なないように最善の注意はして生きているつもりですが、いつか死ぬに決まってます。そんな中、理想を追って生きることこそ理想である、と考えているとお伝えしたいと思います。 ・ 私が死んだら葬式も要りませんし、墓も要りません。自然葬で海にでも撒いていただければ思います。死んだ後に何かになりたいとも思いませんし、集まることで余計なお金を使うことも必要ないと思ってます。ただ、それがみんなの意思でやりたいということならば、死んでいるわたしに拒む権利もありません。みんなが好きにしたらいいと思います。死んだ人のことは置いておいて、生きている人を中心に楽しくやってもらえたら、死んでるけど幸せです。笑。死ぬとは生きること。やっぱりこの考え方は30年近く経っても変わりませんです、はい。 ・ ということで、死ぬことを考えていたら、猛烈に燃えてきましたよ!よーし、明日も元気にがんばるー!!!!!えいえいおー!!!!と燃えたぎる血潮の生命と共に、今日は終わりにしたいと思います。死ぬのは怖い、死にたくない。だけどいつか死んじゃうんだなー。しょうがないなー。でもどうしようもない。今まで死ななかった人は一人もいない。避けられないから、今を精一杯、生きよう! ・ #mylife

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ヒラハルのインスタグラム(wazawazapan) - 9月14日 19時16分


保険の話の続きです。「死ぬ」ということについてもう少し深く考えてみます。今日はわたしの死生観をお伝えします。

人はいつか死ぬと気がついたのは中学生の時でした。新聞で尊厳死のシリーズを連載しているのを読み衝撃を受けて、夏休みの自由研究に尊厳死を選び、中学生なりに人が人の命を断つ正義について真剣に考えました。以前にも書きましたが、同時期に手塚治虫のブッタや火の鳥も読んで、死ぬと生きるは常に表裏一体で、「後悔なく生きることが、後悔なく死ぬこと」だと気がつきました。

生まれてきたものは必ず死にます。死は人生の中で最も強い悲しみであり、誰にも平等に必ず訪れるものです。面白いなと思います。どんな境遇、生活、生き方であっても死ぬという事実は変わりありません。近しい人が死ぬことを誰しも経験します。最大の悲しみが誰にでも訪れることを知った時に、少し気が楽になりました。それでもみんな生きている。人間はとても強い。

さて、そんな中に、わたしが最も興味のない保険の話が出てきます。保険とは自分が死んだ後に残る人のために掛けるものでしょう。様々な考え方があると思いますが、私が社会人として負うべき責任としての保険を考えるならば、会社の代表取締役であるという点での保険は必須だなと考えてます。会社の主が突然亡くなった場合、社員にかける迷惑を最小限にするためにまず保険に入らなければなりません。これは立場としての保険です。

家族の中ではどうでしょうか?私は現在、無借金なので、死んだとすると経済的な損失は多少はあるものの、夫が健康である限り、スタッフと共に事業を存続させ何とかやっていけるでしょう。子どもは自分で生きていくものであると考えていますので、高校生くらいの年になれば、親がいなくとも勝手に収入を得て生活できる逞しさは、うちの子たちは持っていてくれると信じています。なので、最小限でいいでしょう。

病気で迷惑をかけるというケースがないように、日々健康に気をつけて、食事・運動・睡眠を徹底的に追求しています。それでも病気になって迷惑をかけることがあるならば、急病のケースが高いでしょう。重度の障害がある場合は、施設に入れてもらうくらいのお金を用意しなければいけなくなるかもしれません。

当たり前ですが、保険は「たられば」です。もし死んだとしたら、急病になったら、癌になったら、事故にあったら、、、万が一の場合に備え、大切な誰かが困るから掛けるものです。生きている時の安心も買うことができるでしょうし、どの程度の保険が必要かの基準は人それぞれです。

いろいろな考え方があるでしょうが、わたしの場合、保険に入るか否かを考えた時に、考えるベースはこんなことです。自分の周りの人間を信頼しているので、基本的にわたしが死んだってどうにかなると思ってます。きっとみんなやれるはずです。だから、自分なりの解釈で保険に入るか否かを選択します。家族や友人はそれをきっと肯定するでしょう。揺るぎない信頼関係があるので、全く心配していません。そのために、自分は今の生き方を選んでいると言えます。

繰り返しになりますが、人は死ぬものというベースに立って、わたしは今を生きています。なので、いつ死んでもいいくらいの覚悟で全てに望んでいますし、死にたくないですけど、死なないように最善の注意はして生きているつもりですが、いつか死ぬに決まってます。そんな中、理想を追って生きることこそ理想である、と考えているとお伝えしたいと思います。

私が死んだら葬式も要りませんし、墓も要りません。自然葬で海にでも撒いていただければ思います。死んだ後に何かになりたいとも思いませんし、集まることで余計なお金を使うことも必要ないと思ってます。ただ、それがみんなの意思でやりたいということならば、死んでいるわたしに拒む権利もありません。みんなが好きにしたらいいと思います。死んだ人のことは置いておいて、生きている人を中心に楽しくやってもらえたら、死んでるけど幸せです。笑。死ぬとは生きること。やっぱりこの考え方は30年近く経っても変わりませんです、はい。

ということで、死ぬことを考えていたら、猛烈に燃えてきましたよ!よーし、明日も元気にがんばるー!!!!!えいえいおー!!!!と燃えたぎる血潮の生命と共に、今日は終わりにしたいと思います。死ぬのは怖い、死にたくない。だけどいつか死んじゃうんだなー。しょうがないなー。でもどうしようもない。今まで死ななかった人は一人もいない。避けられないから、今を精一杯、生きよう!

#mylife


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2017/9/14

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