職人.comさんのインスタグラム写真 - (職人.comInstagram)「【琵琶湖疏水】  幕末の京都は、禁門の変で市中の多くが焼け、さらに東京遷都によって人口は減少し、それまでの活力を失いつつありました。そこで、第3代京都府知事の北垣国道は、京都の人々にとって長年の夢であった琵琶湖疏水の建設を計画し、京都の復興を図りました。灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とし、疎水の水力で新たな工場を作り、船で物資の往来を盛んにしようという計画です。  当初の予算は60万円でしたが、最終的にはその倍の125万円という莫大な工事費を要する大事業となります。技術者たちは、最新の技術や知識を学んだ若者たちが抜擢されました。主任技術者には、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎(当時21歳)が、測量技師には、欧米の測量術を学んで実績を積んでいた島田道生(当時33歳)が選ばれました。  明治18年に着工し、明治23年には第1疎水のうち大津から鴨川合流点までが完成し、そこから伏見までは明治27年に完成。工事は延べ400万人の作業員を動員し、過酷を極めます。特に、大津と山科の間にある第1トンネルは全長2436mもあり、最大の難関として警戒されていましたが、山の上から垂直に穴を掘り、そこから山の両側に向けて工事を進めていくシャフト方式が日本で初めて採用され、無事に開通しました。このころの日本では、大規模な土木工事は外国人技師の指揮の下で行われるのが普通ですが、第1疎水の建設工事は、設計から施工まですべて日本人の手で行った最初の事例でした。  第1疎水の完成によって人々の生活は変化し、中でも当時の最新技術であった水力発電は、その電力により中小工場の機械化が進んだり、電気鉄道の営業が開始したりと、京都の経済や産業の発展に大きく貢献しました。疎水は水車の動力に用いる計画でしたが、アメリカの水力発電を視察した田邉朔郎らの提言により、工事の途中で水力発電へと計画が変更され、蹴上発電所が建設されるに至ったのです。船を往来させるための蹴上インクラインもその電力によるものです。  その後、明治20年代後半になると、電力の需要は年々増加し、第1疎水だけではまかないきれなくなり、また、伝染病が流行し地下水の質が問題となったため、京都市は第2疎水の建設に踏み切りました。京都市三大事業の一つとして進められ、明治41年に着工、明治45年に完成。この第2疎水は汚染を防ぐために、全線トンネルと埋立水路になっており、蹴上で第1疎水に合流します。この水資源を上水道として利用するため蹴上浄水場が完成し、人々の生活基盤となりました。  また、蹴上インクラインや南禅寺水路閣、疏水分線である哲学の道などは京都の名所となり、文化的な景観をもたらしました。これらは先人の努力を今に伝える重要な遺産でもあります。琵琶湖疏水は京都のまちづくりに欠かすことのできない存在であり、これからも私たちの生活を潤し続けてくれることでしょう。  ショールームのご案内 https://www.shokunin.com/jp/showroom/  参考資料 https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/story/ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/琵琶湖疏水  @shokunincom  #職人ドットコム #手仕事 #手工芸 #調理道具 #キッチン用品 #料理道具 #台所道具 #上京区 #中京区 #銀座一丁目 #西陣 #民芸 #民藝 #レトロ建築 #琵琶湖疏水 #琵琶湖 #疏水 #田邉朔郎 #島田道生 #シャフト方式 #第1疎水 #第2疎水 #北垣国道」5月26日 15時14分 - shokunincom

職人.comのインスタグラム(shokunincom) - 5月26日 15時14分


【琵琶湖疏水】

幕末の京都は、禁門の変で市中の多くが焼け、さらに東京遷都によって人口は減少し、それまでの活力を失いつつありました。そこで、第3代京都府知事の北垣国道は、京都の人々にとって長年の夢であった琵琶湖疏水の建設を計画し、京都の復興を図りました。灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とし、疎水の水力で新たな工場を作り、船で物資の往来を盛んにしようという計画です。

当初の予算は60万円でしたが、最終的にはその倍の125万円という莫大な工事費を要する大事業となります。技術者たちは、最新の技術や知識を学んだ若者たちが抜擢されました。主任技術者には、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎(当時21歳)が、測量技師には、欧米の測量術を学んで実績を積んでいた島田道生(当時33歳)が選ばれました。

明治18年に着工し、明治23年には第1疎水のうち大津から鴨川合流点までが完成し、そこから伏見までは明治27年に完成。工事は延べ400万人の作業員を動員し、過酷を極めます。特に、大津と山科の間にある第1トンネルは全長2436mもあり、最大の難関として警戒されていましたが、山の上から垂直に穴を掘り、そこから山の両側に向けて工事を進めていくシャフト方式が日本で初めて採用され、無事に開通しました。このころの日本では、大規模な土木工事は外国人技師の指揮の下で行われるのが普通ですが、第1疎水の建設工事は、設計から施工まですべて日本人の手で行った最初の事例でした。

第1疎水の完成によって人々の生活は変化し、中でも当時の最新技術であった水力発電は、その電力により中小工場の機械化が進んだり、電気鉄道の営業が開始したりと、京都の経済や産業の発展に大きく貢献しました。疎水は水車の動力に用いる計画でしたが、アメリカの水力発電を視察した田邉朔郎らの提言により、工事の途中で水力発電へと計画が変更され、蹴上発電所が建設されるに至ったのです。船を往来させるための蹴上インクラインもその電力によるものです。

その後、明治20年代後半になると、電力の需要は年々増加し、第1疎水だけではまかないきれなくなり、また、伝染病が流行し地下水の質が問題となったため、京都市は第2疎水の建設に踏み切りました。京都市三大事業の一つとして進められ、明治41年に着工、明治45年に完成。この第2疎水は汚染を防ぐために、全線トンネルと埋立水路になっており、蹴上で第1疎水に合流します。この水資源を上水道として利用するため蹴上浄水場が完成し、人々の生活基盤となりました。

また、蹴上インクラインや南禅寺水路閣、疏水分線である哲学の道などは京都の名所となり、文化的な景観をもたらしました。これらは先人の努力を今に伝える重要な遺産でもあります。琵琶湖疏水は京都のまちづくりに欠かすことのできない存在であり、これからも私たちの生活を潤し続けてくれることでしょう。

ショールームのご案内
https://www.shokunin.com/jp/showroom/

参考資料
https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html
https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/story/
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/琵琶湖疏水

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2023/5/26

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