田中菜月さんのインスタグラム写真 - (田中菜月Instagram)「【わたしの薩摩会議vol.2】 旅は終わることなく、日常に続いている  薩摩会議のアフターツアーは ウェルトラベルシティーの鹿児島県日置市に 行ってきました!  永山吉高市長みずから、ご案内していただき ウェルビーイングな方たちと 巡りました。  400年前、島津義弘の時代に、韓国からさまざまな職人さんたちを連れてきたことを教えていただき  現在は15代目の当主、沈壽官(ちんじゅかん)さんが今もなお、昔ながらの登り窯で陶器を焼いていました。  職人さんたちの様子が まるで祈りのようで 思わず、ガラス越しに手を合わせいると  ふと、目をこちらに向け お辞儀をしてくださった。  作家の司馬遼太郎さんも沈さんとの出会いや歴史を交え『故郷忘じがたく候』という小説にまでなっている。  チェックインのときから 市長が話される 韓国と日本の友好に貢献された 沈さんのお話に  わたしは涙が溢れ  ふと隣をみると 由香さんもハンカチで涙を拭きながら  形は違えど みんなが世界平和を願って活動している  そのような言葉に つながりと力を感じました。  今回のツアーメンバーも 場所も活動も違えど 深いところではつながっている。  薩摩会議は わたしのなかでは 始まったような感覚。  悲しみや怒りを超えて 国を超えて 大きな平和にむけて 働かれた人のエネルギーを感じ  その本を読みながら 沈壽官窯の焼きもので 鹿児島の日本茶と 日置にある老舗梅月堂の ぬれどら焼きを いただく時間がありがたい。  次回は! 日置市の小平さんのご先祖さまからの土地に立ったオシャレスペースにて発酵スナックや ウェルビーイングを巡る旅も開催に向け進めます!  お楽しみに♡  歴史好きなかたは、沈壽官さんのファミリーヒストリーを読んでみてください。 ↓ 慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)、四人等を出した名門である。  薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人技術者達(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。それらの焼物は、薩摩産出の土を用い、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを『国焼』(くにやき)と呼ぶ。  江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。 沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり三代 陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才 十二代 壽官を輩出した。」4月26日 22時52分 - natsuki_hakko

田中菜月のインスタグラム(natsuki_hakko) - 4月26日 22時52分


【わたしの薩摩会議vol.2】
旅は終わることなく、日常に続いている

薩摩会議のアフターツアーは
ウェルトラベルシティーの鹿児島県日置市に
行ってきました!

永山吉高市長みずから、ご案内していただき
ウェルビーイングな方たちと
巡りました。

400年前、島津義弘の時代に、韓国からさまざまな職人さんたちを連れてきたことを教えていただき

現在は15代目の当主、沈壽官(ちんじゅかん)さんが今もなお、昔ながらの登り窯で陶器を焼いていました。

職人さんたちの様子が
まるで祈りのようで
思わず、ガラス越しに手を合わせいると

ふと、目をこちらに向け
お辞儀をしてくださった。

作家の司馬遼太郎さんも沈さんとの出会いや歴史を交え『故郷忘じがたく候』という小説にまでなっている。

チェックインのときから
市長が話される
韓国と日本の友好に貢献された
沈さんのお話に

わたしは涙が溢れ

ふと隣をみると
由香さんもハンカチで涙を拭きながら

形は違えど
みんなが世界平和を願って活動している

そのような言葉に
つながりと力を感じました。

今回のツアーメンバーも
場所も活動も違えど
深いところではつながっている。

薩摩会議は
わたしのなかでは
始まったような感覚。

悲しみや怒りを超えて
国を超えて
大きな平和にむけて
働かれた人のエネルギーを感じ

その本を読みながら
沈壽官窯の焼きもので
鹿児島の日本茶と
日置にある老舗梅月堂の
ぬれどら焼きを
いただく時間がありがたい。

次回は!
日置市の小平さんのご先祖さまからの土地に立ったオシャレスペースにて発酵スナックや
ウェルビーイングを巡る旅も開催に向け進めます!

お楽しみに♡

歴史好きなかたは、沈壽官さんのファミリーヒストリーを読んでみてください。

慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)、四人等を出した名門である。

薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人技術者達(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。それらの焼物は、薩摩産出の土を用い、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを『国焼』(くにやき)と呼ぶ。

江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。
沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり三代 陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才 十二代 壽官を輩出した。


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2023/4/26

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