山内マリコのインスタグラム(yamauchi_mariko) - 9月20日 17時36分
明治8年、富山県高岡市に生まれた本保義太郎の、裸婦像の石膏。
仏師の家に生まれ、18歳のときシカゴ万博に仏像を出品し受賞した早熟ぶりで、さらに西洋彫刻を志し東京美術学校へ進学。高村光太郎らと青年彫塑会に出品している。明治37年にニューヨークへ渡り、ラシュモア山の大統領像で有名な彫刻家ボーグラムの助手になる。翌年、30歳で渡仏。当時パリにいたごくごく少数の日本人のなかには、荻原碌山などがいたそう。そしてロダンの目にかないサロン出品を果たすという夢のようなキャリアが幕を開けたと思ったら、わずか32歳で客死という最期を迎えます。
この時代、才能と勇気ある若者たちは西洋を目指したけれど、もちろん誰もが生きて帰ってこられるわけじゃない。無事に生きて帰り大成した人、それが叶わなかった人。後者である本保義太郎の作品は、展示される機会がほとんどないまま、倉庫で保管されていました。
この作品はあくまで石膏の原型ですが、無傷のブロンズ作品より、経年変化した原型の方が、より作家が辿った人生の厳しさを物語っている気がして選びました。
#富山県美術館
#tadのベスト版
[BIHAKUEN]UVシールド(UVShield)
>> 飲む日焼け止め!「UVシールド」を購入する
104
1
2020/9/20