江連裕子さんのインスタグラム写真 - (江連裕子Instagram)「. 先日、ラグランダムの司会をさせて頂いた、 九段Kudan house の建物が とても素敵だったので調べてみました! ↓ 旧山口萬吉邸は大正15年1月に着工しました。建設期間中は内藤、木子(木子が長期海外出張中は、吉田鉄郎に代役を依頼)、今井が何度も建設現場を訪れ、工事の指導にあたったことが現場日誌に記録されています。多くの関係者が関与、設計変更や工期延長等もありましたが、昭和2年10月に竣工。竣工後は、山口萬吉邸として、多くの使用人とともに生活していました。 その後激動の時代に突入、太平洋戦争へと突き進んでいきます。 昭和20年に入ると、日本のあらゆる都市は空襲を受けるようになり、大きな被害を受けました。特に3月10日の東京大空襲では大量の焼夷弾が投下され、多くの木造建物が焼失しています。その中で、鉄筋コンクリートで施工された旧山口萬吉邸はその姿を保ち続けました。 一方、多くの家具は空襲を避けるため長岡へ「疎開」させます。しかし、その長岡が空襲を受け、移動途上で鉄道貨物車ごと焼失してしまいます。 終戦後は他の多くの建築物同様GHQに接収されました。 GHQ将校の居宅として使用された後返還されましたが、それ以降も外国政府の関係機関やフルブライト委員会等への賃貸が続き、20年近い期間、他人の手に委ねられました。 昭和38年から、再び居宅として山口萬吉の子息一家が使用することとなり、ようやく元の姿を取り戻します。ところが時代は高度成長期を経てバブル期を迎え、地価高騰、開発の波に晒されることになります。周囲の建物が老朽化や高度利用といった理由によって次々と建て替えられていく中、旧山口萬吉邸は頑なに沈黙を保ち、その姿を維持してきました。 東京都千代田区という都心部にありながら90年もの間、激動の時代を乗り越え、取り壊されることなくほぼ建築当時のままの姿を遺している旧山口萬吉邸は、奇跡とも言える建築物です。 旧山口萬吉邸の特徴 旧山口萬吉邸は、2018年5月に「登録有形文化財」として、文化財登録原簿に登録されました。以下の2点にその歴史的な価値が認められています。 まず、関東大震災後に設計されたこの邸宅が、後に「耐震設計の父」と言われる内藤多仲の構造設計による壁式鉄筋コンクリート造であること。震災を経験し、耐震性・耐火性を重視した設計であろうと想像できますが、壁の厚さが8寸(24cm)に及ぶなど、その耐震性能は現在の新耐震基準を遥かに上回っています。 そしてアーチ、スタッコ壁、スパニッシュ瓦など当時流行したスパニッシュの建築様式を施していること。これは山口萬吉邸と同時期に設計された、内藤多仲邸の意匠設計を行った木子七郎および今井兼次によるものです。壁式鉄筋コンクリート造により大空間が作れないという制約がある中で、和室など日本的な要素も巧みに取り入れ、和と洋が高い次元で共存する建物に仕上がっています。 山口萬吉邸は、ひとつの建物の中でプライベート空間とパブリック空間を明確に区分し、お客様をもてなすための部屋、家族の部屋、女中部屋、物置・機械室など、地上3階地下1階の4層からなるフロアと部屋ごとに特徴を持っています。加えて1階のスクリーンポーチ、2階のベランダー、3階の屋上など、半屋外空間が多数存在。 #九段ハウス #kudanhouse #モエ #ラグランダム #ヴーヴクリコ #司会 #party #partydresses #建築 #建築デザイン #建築女子 #建物 #建物好き #江連裕子 #セントフォース #セントフォース所属」4月27日 11時52分 - yuko_ezure

江連裕子のインスタグラム(yuko_ezure) - 4月27日 11時52分


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先日、ラグランダムの司会をさせて頂いた、
九段Kudan house の建物が
とても素敵だったので調べてみました!

旧山口萬吉邸は大正15年1月に着工しました。建設期間中は内藤、木子(木子が長期海外出張中は、吉田鉄郎に代役を依頼)、今井が何度も建設現場を訪れ、工事の指導にあたったことが現場日誌に記録されています。多くの関係者が関与、設計変更や工期延長等もありましたが、昭和2年10月に竣工。竣工後は、山口萬吉邸として、多くの使用人とともに生活していました。
その後激動の時代に突入、太平洋戦争へと突き進んでいきます。
昭和20年に入ると、日本のあらゆる都市は空襲を受けるようになり、大きな被害を受けました。特に3月10日の東京大空襲では大量の焼夷弾が投下され、多くの木造建物が焼失しています。その中で、鉄筋コンクリートで施工された旧山口萬吉邸はその姿を保ち続けました。
一方、多くの家具は空襲を避けるため長岡へ「疎開」させます。しかし、その長岡が空襲を受け、移動途上で鉄道貨物車ごと焼失してしまいます。
終戦後は他の多くの建築物同様GHQに接収されました。
GHQ将校の居宅として使用された後返還されましたが、それ以降も外国政府の関係機関やフルブライト委員会等への賃貸が続き、20年近い期間、他人の手に委ねられました。
昭和38年から、再び居宅として山口萬吉の子息一家が使用することとなり、ようやく元の姿を取り戻します。ところが時代は高度成長期を経てバブル期を迎え、地価高騰、開発の波に晒されることになります。周囲の建物が老朽化や高度利用といった理由によって次々と建て替えられていく中、旧山口萬吉邸は頑なに沈黙を保ち、その姿を維持してきました。
東京都千代田区という都心部にありながら90年もの間、激動の時代を乗り越え、取り壊されることなくほぼ建築当時のままの姿を遺している旧山口萬吉邸は、奇跡とも言える建築物です。
旧山口萬吉邸の特徴
旧山口萬吉邸は、2018年5月に「登録有形文化財」として、文化財登録原簿に登録されました。以下の2点にその歴史的な価値が認められています。
まず、関東大震災後に設計されたこの邸宅が、後に「耐震設計の父」と言われる内藤多仲の構造設計による壁式鉄筋コンクリート造であること。震災を経験し、耐震性・耐火性を重視した設計であろうと想像できますが、壁の厚さが8寸(24cm)に及ぶなど、その耐震性能は現在の新耐震基準を遥かに上回っています。
そしてアーチ、スタッコ壁、スパニッシュ瓦など当時流行したスパニッシュの建築様式を施していること。これは山口萬吉邸と同時期に設計された、内藤多仲邸の意匠設計を行った木子七郎および今井兼次によるものです。壁式鉄筋コンクリート造により大空間が作れないという制約がある中で、和室など日本的な要素も巧みに取り入れ、和と洋が高い次元で共存する建物に仕上がっています。
山口萬吉邸は、ひとつの建物の中でプライベート空間とパブリック空間を明確に区分し、お客様をもてなすための部屋、家族の部屋、女中部屋、物置・機械室など、地上3階地下1階の4層からなるフロアと部屋ごとに特徴を持っています。加えて1階のスクリーンポーチ、2階のベランダー、3階の屋上など、半屋外空間が多数存在。
#九段ハウス #kudanhouse #モエ #ラグランダム #ヴーヴクリコ #司会 #party #partydresses #建築 #建築デザイン #建築女子 #建物 #建物好き #江連裕子 #セントフォース #セントフォース所属


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2019/4/27

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